益子焼

栃木県芳賀郡益子町周辺を産地としている陶器を益子焼(ましこやき)と言います。この親しみやすい陶器でおなじみの益子焼は、江戸時代の末期に常陸国笠間藩(現在の笠間市)で修行した大塚啓三郎が、益子に窯を築いたことに始まっています。とても扱いやすい優れた陶土が産出されたことにより、主要な市場となった東京に近いこともあって、日用雑器のつぼや、鉢、水がめ、土瓶など、庶民にも身近な道具の産地としての発展をしていきました。

日用雑器中心で始まった益子焼でしたが、ついに転機が訪れます。1927年より創作活動を開始した濱田庄司によって花器、茶器などの作品が作られるようになり、1959年に加守田章二が開いた窯では、民芸品一辺倒の感が強かった益子焼に現代的な独創性が加わるようになりました。

日用雑器としての益子焼の特徴は、砂気の多いゴツゴツとした土の重い質感にあります。使われる釉薬(ゆうやく)は、黒や、赤茶色、飴色の鉄釉(てつゆう)を使用し、色づけは犬毛筆で行うために、ぼってりとした感じの色合いと肌触りに大きな特徴を持っています。

現在、益子町には窯元は約250あり、50店舗が軒を連ねています。たくさんの陶芸家が窯を持ち、その作風も多種多様名ものとなっています。では、いくつか有名な益子焼作家とその作品たちをご紹介します。

濱田庄司作品

濱田庄司は昭和に活躍した日本の陶芸家、益子焼の普及者の一人ですが、その兄弟たちも同じように陶芸や工芸に携わっています。彼は、現在の東京工業大学である東京高等工業学校の窯業科で窯業の基礎科学を学び、同校を卒業後は京都市立陶芸試験場にて釉薬の研究をしています。バーナード・リーチと知り合い、1920年(大正9年)には、イギリスに帰国するリーチに同行しました。ロンドンで個展を開催して成功を収めると、1930年(昭和5年)から、栃木県益子町で益子焼の作品作りに没頭します。

彼の作品には、手ろくろのみを使用したシンプルな造形美があります。また、得意の釉薬研究から生まれた大胆な筆模様を得意としていました。1955年(昭和30年)2月15日に人間国宝に指定されています。さらに紫綬褒章、文化勲章も受章しました。

それまで日用雑器の正確が強かった益子焼でしたが、彼は民芸運動に熱心で1977年(昭和52年)には、民芸品を展示する益子参考館を開館しています。

島岡達三作品

益子の陶芸の世界では、「濱田庄司以前」、「濱田庄司以降」、という言われ方をするようですが、その「以降」の中でも、その筆頭にあげられる人が、この島岡達三と言えます。どんな益子の陶芸家だったのでしょうか。

島岡達三は、まだ学生だった時代に民芸運動の思想の洗礼を受けました。きっかは、日本民芸館でした。民芸の美に目ざめた島岡は、すぐに陶芸の道へと進んでいきました。当時の民芸運動の中心人物は、あの濱田庄司ですが、彼を師と仰ぎ、益子で民芸作品の芸術美を追求していきました。組ひも師であった父親の影響もあり、その組ひもを用いて、独自の縄文象嵌(じょうもんぞうがん)という手法を生み出しました。

その島岡の編み出した独自の縄文象嵌(じょうもんぞうがん)という手法は非常にユニークでした。半乾きの作品に縄目を転がして模様をつけたのちに、全体に着色をした化粧土を塗ります。乾燥を待ってから、表面を薄く削ると、縄のあとには化粧土の色が残り、平らな部分は下地が表れてきて、見事な象嵌による作品ができあがるのです。この技法により、師であった濱田庄司に続くように、1996年に島岡達三は重要無形文化財保有者(人間国宝)として認定され、日本を代表する作家の一人となりました。彼もまた、芸術作品としての益子焼に新しい息吹を吹き込んだ一人でもありました。

佐久間藤太郎作品

栃木県の陶芸一家で育った佐久間藤太郎も、昭和の始めの「濱田庄司以降」人で、彼に強い影響を受けた陶芸家です。当時、イギリスからの帰国をしたばかりの濱田庄司が、佐久間家に宿泊して、作品づくりを行っていましたが、そのきっかけにより、濱田の陶器づくりの世界に強く感動し、傾倒して、ついに彼に師事することになりました。そして、佐久間藤太郎はやがて益子焼の陶芸家として大活躍をしていきます。

その作風は自由自在な釉薬の使い分けにあります。筆で描いたり、スポイトで流し描きをしたり、刷毛目を使用した作品づくりは彼の作品の大きな特徴です。その素朴、かつ重厚で、どこか優雅さを持った作品たちは、益子焼を、単なる生活雑器から芸術品の域にまで高めました。栃木県文化功労章や勲五等瑞宝章の選出を受け、益子焼の新しい歴史を作った一人として高い評価を受けています。

合田好道作品

知る人ぞ知ると言われている伝説的な益子の陶芸家、そして画家でもある人が合田好道です。
合田の名は、一般的に知る人は少なく有名とも言えませんが、益子の歴史を語るときに、決して忘れてはならない独創的な存在の陶芸家でもありました。

合田好道は、1910年に香川県は三豊郡豊濱町(現在の観音寺市)で生まれ、三豊中学校を中退したあとに別府へ移住し、そののち画家を志望しています。1929年に上京したあとに、芸術家・陶芸家としての頭角を徐々に現していきました。1949年、柳宗悦、バーナード・リーチたちと益子で知り合い、作品作りの影響を受け、大誠窯、塚本窯、成井窯などを指導しています。1974年に、和田安雄を伴い韓国に移住して金海窯築窯を開きました。60歳を過ぎてから、韓国に渡って作品作りに没頭した合田は、1980年に韓国から益子へと帰ったのちにも、陶芸、絵画、書などにその才能を存分に発揮しました。その作品は北大路魯山人をほうふつとさせる高度な芸術性を持つとして高い評価を受けています。

彼はその死までたくさんの若手陶芸家たちに影響を与えて続けて、益子の陶器や民芸についての知識の普及に努めました。その若者たちは、現在の益子で活躍する立派な陶芸家になっています。「濱田庄司以降」の益子の民芸作家たちの中では、合田は群を抜いた独創的な作品作りを得意としています。熱心な益子焼の愛好家たちにより、合田の名は、これからますます、多くの方々に知られていくことになるに違いありません。

益子焼の世界は、表現の自由や、創造性の面で、非常に多様な変化を遂げてきています。もともと日常生活の雑器として発展してきた技術が、偉大な陶芸家たちの活動により、単なる民芸品を超えた芸術品の域に達するまでになりました。これまでたくさんの芸術家を魅了してきた益子焼の世界は、さらなるステージへと羽ばたいていくことでしょう。

売られた方のお声:栃木県小山市S様
毎年、益子の陶器市に行くたびに陶器を買っていますが、少し整理をかねて、所持している有名な益子焼を買い取りしてくれるお店を探していました。ネットでウルトラバイヤーさんを知り、早速、買取の打診をしたところ、「即ウル」サービスがあるとのことで利用することにしました。携帯カメラで濱田庄司作「狸庵」藍塩釉櫛目茶碗であることを確認していただくと、すぐに査定を出してくれました。非常に高額の査定をいただきましたので、思い切って買い取っていただくことにしたら、もう、翌日には口座に査定額とおりの現金が振り込まれていました。もう、スピード感といい、査定員のレベルの高さといい、とても満足しています。宅配に不安があれば取りに来てもいただけるとのことでフットワークの軽さにも大変関心をしましたので、ほかにもいくつか見ていただこうと思っています。