伊万里焼・古伊万里
日本の有名な磁器といえば、約400年の歴史を持つ、佐賀県有田町周辺の地域で焼かれていた有田焼という磁器ですが、その当時は伊万里焼と言われていました。今日の有田焼き、伊万里焼はもともとの発祥で考えると同じ焼き物を指しています。初期の伊万里焼は、その芸術性の高さが高く評価され、東インド会社により買いつけられて、広く海外でも流通するようになりました。実は、これらの有田焼は、伊万里港から海外へと輸出していたことから通称「伊万里」焼と呼ばれるようになったのです。ですから、伊万里港から出る磁器はすべて「伊万里」と呼ばれてしまったことから、その輸出品の中に長崎の三川内焼(みかわちやき)、波佐見焼(はさみやき)などがあれば、それらも「伊万里」と呼ばれていたようです。作っている側では有田(町)焼でも、消費地側から見ると輸出が伊万里港からされていたために「伊万里」と呼ばれていたというわけですね。
近代になり、輸送手段が鉄道に変わってからは、有田地区の製品を「有田焼」と呼び、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになりました。それでは、古伊万里と伊万里の差は具体的に何でしょうか。また、初期伊万里とは何のことを指しているのでしょうか。
古伊万里
単に伊万里焼と呼ばれるものと、古伊万里(Old Imari)と呼ばれる磁器には大きな違いがあります。古伊万里と呼べるものは、江戸時代に有田(佐賀県有田町)で焼成された骨董的価値の高い作品群だけなのです。ですから、もしも100年以上前の古い伊万里焼を持っていたとしても、焼き物を産地名で呼ぶようになった明治初期以降は、現在の伊万里市で作られた陶磁器は古伊万里ではなく、伊万里焼となります。
それでは、日本の古伊万里が西洋でも珍重されたのはなぜでしょうか。それは、一つには中国の明王朝から清王朝への変革の時期に陶磁器が生産できなくなったことに起因しています。ですから、ヨーロッパでの中国磁器の流通不足を緊急にカバーするために考え得る最良の選択として、日本の有田町の陶磁器が選ばれてヨーロッパに輸出されることになったのです。もちろん、単にタイミングがよかっただけの理由ではありません。古伊万里はその芸術性も非常に高く評価されてきたのです。ですから、古伊万里の作品には単なる伊万里焼ではなく、歴史的な、また、骨董的な価値があります。古くはヨーロッパの王侯貴族たちに愛されて、今日でも、世界中に多数の熱烈な愛好家、コレクターが存在しているのです。
初期伊万里
初期伊万里と古伊万里という名称は区別して用いられています。定説では日本における磁器製造の歴史の始まりは1610年代となっていますが、当時の鍋島藩が、1637年に窯場を13箇所に整理して有田焼は産業化していきましたが、そうなる直前までの時代、1610年代から1630年代の有田焼を、とくに初期伊万里と呼びます。
この初期伊万里は染付磁器作品を主体としており、白磁に青一色の模様を付して「生掛け」技法を用いている点に特色があります。「生掛け」とは、絵付けの前に素焼を行わない方法のことですが、興味深い点として、こうして作られた初期の磁器には、朝鮮渡来陶工が用いる独特の「砂目積み」という技法が使われており、中国製の磁器には見ることができません。
当時の朝鮮半島は単なる白磁が主流で、染付技法は中国出身の陶工のものでした。この初期伊万里は、大変素朴な美しさを持ち、叙情美として再評価され、今日では大変に価値の高い磁器ですが、技術が初歩的であったために生地の厚みや作りが雑であったことから、のちの九谷焼や柿右衛門などに市場を奪われて姿を消してしまいました。そのために、大変に流通量が少なく希少性のある磁器として高値で取り引きされるようになりました。
いかかでしょうか?古伊万里と単なる伊万里焼、そして初期伊万里と古伊万里の違いなど、参考になりましたでしょうか。陶磁器の用語は複雑なところがありますので、和食器の愛好家としては、必ず覚えておきたいものですね。
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